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 コミケ76のカタログを買いに店に入った時、すぐさまこの本がお出迎えしていて、購入してしまいました。「新曲2曲収録」と帯に書かれていたので、買わずにいられませんでした。

 1曲目「魔法使いの憂鬱」はどこかで聴いたことのある作り、懐かしい感じがする、いつもの東方の音楽という感じ。この本を買ってよかったとこの曲を聴いて思いました。MP3プレーヤーに入れてパワープレイで聴きそうです。2曲目「スプートニク幻夜」は1曲目より激しいです。東方のゲームであれば2面の道中の曲としてあったかもしれないと思いました。どちらの曲も体になじむほどこれから聴くことでしょう。(夏ではなく秋以降に。)

 で、本体であるグリモアの内容ですが、たぶん200くらいの弾幕が載っていました。正直、弾幕自体は覚えていますが、それがどんな名前なのかを初めて知るものが私にとっては多いです。大体、弾を避けるのに必死でゲーム画面右上に表示される弾幕名を見る余裕など私にあるはずがありませんw

 私にとって印象深い東方の弾幕は、「東方永夜抄」で出会った、上白沢慧音の転世「一条戻り橋」です。私がクリアできた弾幕なので難易度としては易しいのかもしれません。「普段上から降ってくる弾幕が、逆方向である下側からやってくる、たったそれだけでこんなに避けにくくなるものか」というのが、私には面白い事象なのです。オンライン対戦ゲームでも感じたある「法則」に似ているから特に気になるのでしょう。攻めと守りは表裏一体のはずなので、本来攻め方を知っていれば守り方も分かるはず。それなのに攻めるときは強気な相手も攻められると非常に脆(もろ)くなる。たとえ相手が自分より強くても、です。しかも、その事実に気づいてる人がほとんどいないように見えるんですよね、これが。なので、今度は逆に自分の苦手な弾幕について、なぜ苦手なのかを知ると、ほかにも応用できるかもしれない・・・、ということを感じた転世「一条戻り橋」は私の好きな弾幕です。

 この弾幕を霊撃無しで避けることができるのかと特に思っているのは、こちらも「東方永夜抄」ですが、藤原妹紅の不死「火の鳥-鳳翼天翔-」です。名前をこの本で確認して、このスペルカードの備考には思わず笑いましたが、この大きな焼き鳥をどう避けて良いのか私にはまったく分かりません。クリアしたことの無いスペルカードは数多ありますが、このスペルカードは「理不尽だ」と思いました。この弾幕をクリアできる日が訪れたら自分に祝杯を挙げたいものです。

 ゲームプレイ中は弾幕を避けるだけで精一杯なので、この本を眺めるのは楽しいです。ページをめくっているときには余裕を持って弾幕を見ることができるので。私から見れば、新曲が収録されていたからこそ買った本ですが、読めて満足でした。




ここからは蛇足

 あとがきに、「他人のゲームプレイを見て有用なこと見出すことの危険」について書いてあったのですが、私にはその危険性がいまいち分からないでいます。ゲームがどうしてもクリアできなくて、何か助力が必要なとき、「プレイを見る」ことでプレイを進行できることはそんなに悪いことでしょうか?ゲームを作る側は作ったものすべてをしかと見届けてほしいのではなく、クリアできる人だけがゲームすべてを楽しめ、それ以外の人は楽しめなくても構わないのでしょうか?ゲーム以外で例を挙げてみると、たとえばライブイベント。どうしても行けなかった人がいてそれをDVDで観るという手段はあっても良いと思います。こういった例ならいろいろと頭に浮かんで来ます。東方で言えば、私には一生涯難易度LUNATICをクリアするのはできなさそうです。それを他人のプレイを見てこんなすごい世界があるのかと感嘆することは善しとされないのでしょうか。ライトノベルでも、どうも活字が苦手だという人は、それを原作とする漫画なり、アニメなりといろんな楽しみ方があります。ほかの人のゲームプレイを見ることができるというのは、そういった楽しみ方のひとつの在り方ではなかろうかと私は思います。

 それから、有用なことを見出したいという視点で物を見ているだけで有用なものを見出せるかといえば、そうではないこともあるでしょうし。たとえば、狭い部分しか注目しなくなるといった感じで。でも逆に、たとえば、血眼になって見つけようとしてはじめて見つかるものもあります。ゲームでも悠久の歴史の中から必死で真理を見出そうとしているものがあります。なので、一概に善悪は問えないかなと思ったりしました。

 まあ、肩肘張らないで楽しむぐらいが一番かなと思います。



蛇足の蛇足

 プレイを見るだけというのがなぜいけないか、の理由として、金銭という形での利潤が発生しない、もしくは利潤が発生したとしてもクリエイターに還元されないからなのかなと思いもしました。「見る」だけで「プレイ」しなくなることによる、利益の損失からゲームを作るための資金がクリエイターに回らなくなるといったことを考えた場合、他人のゲームプレイを見れることは危険だとは思います。

 以前、ゲーム業界が中古販売に規制が必要と考えても、裁判所は「NO」と言いました。この規制を認めてしまうなら、ゲームに限らずすべての中古販売はできなくなるでしょう。この影響度が非常に高いから「NO」と言ったのかなと思ったりもしています。

 何でこれを中古で販売して作った人間ではなく販売者が利益を得ているのかなと私が最初に思ったのは「車」です。開発にどのくらいの資金がかかっているのか分かりませんが、非常に大きな金額であることは確かでしょう。そして、技術を捻出するのも大変な作業です。それを右から左に流すだけで他人が利益を得るなんておかしいことだと思っていました。

 中古の話は、利潤を得るべき人間が得られないのが変な話だ、ということです。そして、同様にしてプレイを見るだけという行為についてですが、これは発生すべき利益が発生しないことにおかしさがあるのではないでしょうか。本当であれば、プレイした人つまりゲームソフトを購入した人だからこそ見れるものを購入していない人ですら見ることができる世の中になってしまっているというのが善くないことなのかなと思うのです。

 中古に関しても、ゲームプレイを無料で見ることができることに関しても、無くしてしまうのではなく、利潤を受け取るべき人間が受け取れるような社会とすることで存続していくことが良いんじゃないだろうかと私は考えています。
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2009.09.26 Sat l ゲーム l top ▲
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